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「暦法」と「紀年法」の間で

【人々はどのように時の流れを認識してきたか】
古代以来、人々は月や太陽の規則的な動きから「暦」を作りました。また、現在から過去にさかのぼり、未来を考えるために歴史上のある時点を起点に1年1年を考える方法を考え出しました。西暦と元号が併用されている日本は、どのような歴史をたどってきたのでしょう。

【古代の天文学から誕生した「暦法」】
最初に誕生した暦法は、月の満ち欠けの周期を1ヶ月(約29・53日)とする太陰暦だったとされます。太陰暦はメソポタミア文明や中国文明で使用されましたが、1年が354日となってしまうため、実際の季節の変化との間にずれが生じてしまいます。そのため、太陰暦に何年かに1回ずつ「閏(うるう)月」を設けてずれを調整しようとして作られたのが、太陽太陰暦です。メソポタミアでは、すでに紀元前2000年頃には太陽太陰暦が使われていました。
一方、エジプト文明からは現在の太陽暦の起源となる「シリウス暦」が誕生しました。紀元前3000年頃、農耕がはじまっていたエジプトでは、毎年初夏の雨期になるとナイル川が氾濫することに気づきました。そして、雨期の直前の日の出の空に、地上から見える最も明るい恒星であるシリウスが輝くことから、シリウスが現れた日を新年として、次にシリウスが現れるまでの365日間を「1年」として数えることにしたのです。
このシリウス暦を改良して、紀元前46年にローマで誕生したのが「ユリウス暦」です。「賽は投げられた」などの有名な慣用句を生んだローマの独裁官ユリウス・カエサルと、エジプトの女王クレオパトラの出会いから生まれたこの暦は、その後1600年にわたってヨーロッパ世界で利用されることになりました。その後、1582年にローマ法王のグレゴリウス13世が、ユリウス暦からの改暦を行い(グレゴリオ暦)、これが現在の太陽暦として使用されています。

【歴史上のある時点から時を重ねる「紀年法」】
このように、月や太陽の規則的な動きに注目して誕生した暦法に対して、歴史上のある時点を起点に年を数えていく方法のことを「紀年法」と呼んでいます。紀年法は、その起点(紀元)から無限に年を数えていくことが可能です。世界最古の紀年法は、紀元前747年にバビロニアで誕生したナボナッサル紀元と言われています。
紀年法の代表的なものが、現在も使われている西暦(キリスト紀元)です。イエス=キリストの生誕年を起点として年を数えていく西暦が、ヨーロッパ世界で一般的に使用されはじめたのは10世紀以降のことで、「紀元前」として、キリスト生誕以前の年を数えるようになったのは、17世紀に入ってからのことでした。つまり、紀元前1年の次の年は、紀元後1年と数えることになったのです。
紀年法には、西暦のように宗教から誕生したものと、神話から誕生したものがあります。宗教的なものとしては、イスラム教から生まれたヒジュラ紀元(ムハンマドがメッカからメディナに移った622年を紀元とする)、仏教から生まれた仏滅紀元(シャカが入滅した紀元前544年あるいはその翌年を紀元とする)などがあります。
神話から誕生したものには、檀君紀元(朝鮮神話の最初の王「檀君」が即位したとされる紀元前2333年を紀元とする)、日本の神武紀元(皇紀)があります。神武紀元の制定過程については、のちに説明します。

【古代中国で生まれた干支】
中国では、紀元前1300年頃の殷の時代に太陽太陰暦による暦法が成立し、王朝が変わるごとに暦が変更されました。さらに、紀元前4世紀(紀元前400年~紀元前301年)頃には、暦と実際の季節のずれを解消するために「二十四節気(にじゅうしせっき)」を定めています。「春分」「秋分」「夏至」「冬至」などといった言葉は、この「二十四節気」で使われているものです。
中国独自の暦法として重要なのが、十干十二支、いわゆる干支です。干支は、木星の動きに注目して作られました。十干は、甲・乙・丙・丁・戊(ぼ/つちのえ)・己(き/つちのと)・庚(こう/かのえ)・辛(しん/かのと)・壬(じん/みずのえ)・癸(き/みずのと)で、十二支が、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥です。この十二支は、現在も生まれ年を指すときに使用されています。
この十干と十二支の組み合わせによって60年を1サイクルとして、そのうちの1年を表す暦法が、干支です。現在60歳を迎えることを「還暦」と言いますが、これは干支の1サイクルを終えて、新たな1サイクルに入ることから使われはじめた言葉です。中国では、このうち「辛酉(しんゆう)」にあたる年には「天命が革(あらたま)る年」=王朝が交代する年であると考えられており(辛酉革命)、ここから「革命」という言葉が生まれました。また「甲子」にあたる年にも「変乱」が起きる(甲子革令)と考えられています
干支は紀元後50年以降の中国王朝で定着し、6世紀頃に日本に伝来してきました。古代日本で最大の内乱となった壬申の乱(672年)は、干支の「壬申」の年に起きたのでこう呼ばれるようになりました。また、中国で清朝が倒された辛亥革命(1911年)も、「辛亥」の年に起きています。また、兵庫県にある阪神甲子園球場も「甲子」の年(1924年)に作られたことが名前の由来になっています。

干支と元号の対応関係です。永禄7年は、西暦では1564年にあたります。

【皇帝/天皇が時を支配する「元号】
「元号」も、古代中国で誕生しました。前漢(紀元前206年~紀元後8年)の武帝(紀元前141年に即位)が、自身の即位翌年の紀元前140年を「建元元年」と定めたことがはじまりです。これ以降、皇帝の即位や、祥瑞(めでたい前触れ)や災難が起きた際や、辛酉革命・甲子革令にあたる年のたびに改元が行われていきました。皇帝が自らの意志で改元を行うということは、皇帝が人びとの「時間」を支配することにほかならず、皇帝の政治的権威をひろく誇示するものとなりました。
元号は、中国から周辺の漢字文化圏(朝鮮、日本、ベトナム)にひろがっていき、日本では、645年を「大化元年」としたのが元号使用のはじまりで、701年の大宝律令の制定以降、元号は現在に至るまで連続しています。大宝律令の制定が、当時の唐をモデルとした中央集権的な国家を作るために行われたように、元号も天皇の政治的権威を誇示するために必要とされました。
ただし、中国では、あまりにも改元が多かったことから、明(1368年~1644年)の初代皇帝が即位する際に、元号「洪武」を制定してその死まで元号を変えなかったことで、皇帝の即位中は同じ元号を使う「一世一元制」がはじまりました。そして、初代皇帝の死後、その諡(おくりな)として初代皇帝は「洪武帝」と呼ばれるようになりました。日本でも、天皇が崩御したのち、その諡として元号に基づく名前で天皇を呼んでいます。昭和天皇(1901年~1989年)も、崩御したのちに「昭和天皇」となったのです。現在即位している天皇は「今上(きんじょう)天皇」と呼ばれています。

【日本の「暦法」と「紀年法」】
日本に暦法が伝来したのは、6世紀のことです。中国で使われていた元嘉暦が日本に伝わり、これ以降、江戸時代に至るまでの日本では、中国の暦を使用していました。このうち最も長く使用された暦が、宣明暦(862年~1685年)です。これは、当時の中国東北部から朝鮮半島にかけて勢力を誇った渤海という国から、渤海使によって伝えられました。894年に遣唐使が廃止されてから、中国文化が日本に流入することが少なくなったため、宣明暦が長く使用されていきました。
戦国時代には、各大名がそれぞれ違う暦を利用しており、江戸幕府にとって暦の統一は重要な課題となっていました。そこで、1685年に新たに制定された暦が貞享暦(当時の元号が貞享でした)です。これ以降、日本では、オランダとのつながりから西洋の天文学を取り入れた独自の暦法を生み出していくことになります。それが宝暦暦、寛政暦、天保暦などです。
しかし、明治維新後、近代化を進める日本政府は、暦も欧米の制度にあわせることにしました。1872年11月(明治5年)に、旧暦(太陽太陰暦)から新暦(太陽暦)への改暦が突然発表されると、国内は大混乱となりました。明治5年12月3日であるべき日が、改暦によって明治6年1月1日に変わってしまったからです。
改暦の背景には、政府の深刻な財政難も影響していました。旧暦の明治6年は、1年が13ヶ月ある「閏年」でした。そのため、政府は役人の月給を13回支払う必要があり、改暦を強行して明治6年を12ヶ月とすることで、月給の支払い回数を減らそうとしたのです。

貞観暦の一部。太陽太陰暦による暦と、十干十二支が併記されています。

【「辛酉革命」から生まれた「神武紀元」】
この1872年には、先にふれた神武紀元(皇紀)が定められました。8世紀に成立した『日本書紀』に記された初代天皇である神武天皇の即位年を起点に、年を数えていく方法です。『日本書紀』には、その即位年として「辛酉年春正月庚辰朔」と記されていますが、これは十干十二支によって年月日を表しており、60年に1回やってくるどの「辛酉」の年かはわかりません。
そこで、『日本書紀』の編纂者は、辛酉革命説に則り、1260年に1度やってくる辛酉の年には大革命があるとして、その大革命の年を推古天皇9年(601年)と決めました。そして、この601年の1260年前にも同じく大革命が起きたのだとして、紀元前660年に神武天皇が即位したのだと決め、これを「神武紀元」の起点にしたのです。
ただし、紀元前660年の日本は、弥生時代前期で、まだ古墳も作られていない時期でした。また、『日本書紀』に記される初期の天皇の在位年数は異常に長く、紀元前660年を紀元とするために無理にこじつけたのではないかと考えられています。そのため、実際に紀元前660年に神武天皇が即位したことは現実的ではないとされています。
神武紀元が制定されると、これは「皇紀」として重視され、外国と結ぶ条約などの公文書には、必ず皇紀と元号が併記されていました。1889年には、ヨーロッパの君主制の影響から「一世一元制」を制定して、天皇の在位期間と元号が一致することになりました。アジア・太平洋戦争の敗戦後、皇紀が使用されることはほとんどなくなるとともに、元号を決める法的根拠であった旧皇室典範を改正した新皇室典範には、元号への言及がなくなりました。そのため、法的に元号を使用する根拠がなくなったのですが、「明治100年」を迎える1968年に元号法制化運動が起こり、1979年に「元号法」が制定されて、元号は天皇ではなく内閣が定めることになりました。
2019年の今上天皇即位にともなって改元された元号「令和」の出典は、日本最古の歌集である『万葉集』(7世紀後半~8世紀前半に成立)にあります。元号ができてはじめて、中国の古典に由来しない元号が誕生したのが「令和」だったのです。

葛飾北斎『富岳百景』(1834年/天保5年)に描かれた渾天儀(こん
てんぎ)を使う幕府の役人の姿です。渾天儀は、天体の位置を測定する
ために使われていました。背景には富士山が描かれています。

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